http://abroad.travel.yahoo.co.jp/tif/bin/country_guide/areacd=0100/countrycd=PH/から 1993年にフィリピンの友達のうちへ行きました。その旅行はとてもおもしろかったです。
1992年の夏にヨーロッパへ行きました。ヨーロッパから帰るとき、飛行機(ひこうき)はドバイ(Dubai)にとまりましたが、そこでフィリピンの人が2人飛行機に乗ってきました。そのフィリピン人は私(わたし)のとなりにすわりました。その人はフィリンピンのうちに帰るから、とてもうれしいと言っていました。そして、私にたくさんフィリピンについて話してくれました。その人の名前はホワンです。私はすぐ友達になりました。私は自分(じぶん)の住所(じゅうしょ)をあげました。そして、ホワンも私に住所をくれました。わたしは「来年フィリピンへあそびに行きますね」と言いました。
日本に着いてから、すぐホワンに手紙を出しました。そして、春に「夏にフィリピンへあそびに行ってもいいですか。あなたのうちにとめていただけないでしょうか」と手紙を書きました。ホワンから手紙は来ませんでしたが、たぶんだいじょうぶだと思って、フィリピンに行きました。
フィリピンの空港(くうこう)に着きましたが、私(わたし)はホワンの住所(じゅうしょ)しか持っていませんでした。ホワンの住んでいる町(バターン)への行き方がぜんぜんわかりませんでした。いろいろな人に手つだってもらって、マニラのバスターミナルに着くと、親切(しんせつ)な人が「このバスに乗るんですよ」と教えてくれました。バスに乗ると、私はとてもつかれていたから、バスで寝てしまいました。
http://blog-imgs-38.fc2.com/a/n/g/angelesbargirls/20100219083548b62.jpg 三時間後、私は起きると、ぜんぜん知らない町にいました。私はとなりにすわっている男の子に住所(じゅうしょ)を見せて「ここへ行きたいんだけど」と聞きました。その男の子は「今日は学校へ行きたくないから、この住所のところへ連れて行ってあげるよ」と言って、ホワンのうちまで連れて行ってくれました。
ホワンのうちに着くと、ホワンのお母さんが出てきました。そして、「息子(むすこ)は今日あなたの手紙をもらいました。息子は今日仕事に行かなければなりませんでしたが、どうぞここで待っていてください」と言いました。
夜にわたしの友達は帰ってきて、いろいろなことを話しました。友達は「私のうちはあまりお金がありません。フィリピンには仕事があまりないから、ドバイへ行かなければなりませんでした」と言いました。そのうちはほんとうにあまりお金のあるうちじゃありませんでした。でも、友達と友達の家族(かぞく)の人の目は日本人よりずっとずっときれいでした。私はその目を今もまだわすれられません。
つぎの日に友達が「この近くに日本人のお墓(はか:cemetery)がたくさんありますよ」と言って、そこへ連れて行ってくれました。お墓は高い山の上にあって、とてもきれいな景色(けしき)が見えました。とてもきれいだったから、この町とお墓について知りたくなりました。日本に帰ってから、本でしらべて、私はとてもびっくり(surprised)しました。戦争(せんそう:war)のとき、ここで日本人はたくさんのフィリピン人とアメリカ人を殺(ころ)し(kill)ていたからです。それは学校でぜんぜん習わなかったことでした。私はもっと歴史(れきし)を勉強しなければいけないと思いました。
日本に帰る日が来ました。友達のうちから空港まで3時間ぐらいかかりましたが、友達は空港(くうこう)まで送ってくれました。いっしょにバスに乗って、夜マニラの空港へ着きました。友達は飛行機(ひこうき)のチケットを持っていなかったから、空港の中に入れませんでした。私(わたし)は空港の入り口で「さようなら」と言いました。私の飛行機は朝のフライトだったから、空港のベンチで朝まで寝ました。
日本に帰ってから、手紙を書きました。友達は手紙で「リビアに仕事があるから、リビアに行く」と言っていました。私は2、3度リビアの住所(じゅうしょ)に手紙を出しましたが、友達から手紙は来ませんでした。